だらっと和田パン

話が跳んだり跳ねたり行ったり来たり。映画とか、システマとか、漫画とか。ネタバレあります。

そろそろブラッドセミナーを振り返りたい。

ブラッドセミナー東京

今回の印象は、というか2年前もそうだけど、ワークの数がとても多かった。

ステマ東京は色んなインストラクターのクラスがあるので、人それぞれの感じ方がリードに表れていてとても面白い。(宣伝)

印象を受けたワークも違うし、シェアする内容や方法ももちろん違う。

実際そういえばこんなのやったなーってことばっかりで、全然覚えてないんだなって思わされる。

毎度のことながら。

今回のセミナーのテーマは

Awareness, speed, power

一番最初にやったのは、集団の中から1人決め、他のワークをやりながらもその人の事を意識し続ける。というもの。

総勢150人くらいだとその人に気づかれないようにするのは難しくないけれど、常に意識し続けるのは難しい。他のワークに集中し過ぎたりすると、すぐに見失う。

また気づかれにくいということはつまり気づきにくい、渋谷や新宿で目をつけられても容易に気づけないんだなと、改めて怖さを感じる。

実際何かのワークをやっている時に、いつのまにかブラッドが横にいて、驚いた。

どれくらいそこにいたんだろうか。。。

あっ、今死んでたなっていう感じ。

ブラッドも苦笑い。

今回のセミナーではブラッドの意識が広く行き渡っている様を感じた。今の一件もそうだけど、キックのワークで2対1をやっている時、ボコボコに蹴られまくって、全然上手くいかんなぁと思ってると、not bad とブラッドに言われ、そのまま続けてと言われたので、へこたれずにワークに取り組めた。

また、ちょいちょいgoodと声をかけてもらえたりもしたので、改めてあの人数の参加者を把握してるっていうのは凄いなぁと思った。声かけてもらえると気にされてる感じがして、やる気にもなるし。

今回はちゃっかりデモにも呼んでいただけた。何よりビックリしたのはブラッドの身体。

デモは、首に当てられたナイフを肩の動きで避けるっていうワークだったのだけれど、ブラッドの首に触った瞬間、人間の身体ってこんな風になるの???っていう触感だった。

ブラッドはなかなか触れる機会がないので、しっかり触れたのはその一回のみ。

どんな感触って言われても分からないけれども、やっぱフィジカルが大事なんだなと再認識した瞬間だった。

ブラッドはデモの中で凄い動きとか、アンコンタクトワークとかもやってるけど、ああいうのは身体がしっかりしてこそのものなんだろうなと勝手に思った。

自分がフィジカル至上主義だからなのかもしれんが。

どうやったらああいう身体になれんだろうか。

ちなみに、今回一番印象に残ったワークは、ストライクの練習で、1、2と打ってくる相手に対して、1と2の間に相手にストライクを当てるというワーク。

タイミングだけで、軽いストライクでも簡単に崩せる。

これぞ、”timing beats speed” ってやつか、と密かに楽しんでいた。

その後のデモで、相手が1発目を打ってきた時に身体は避けるけれど、拳は相手のエリアに入れておくというのを説明していた。

これがユーチューブでよく言ってる “the fist is already here” っていうのの1つなんだなーと納得。

Speedとpowerに関してはほとんど説明なかったわりに、timingとprecisionに関してはしっかりワークやってたから、なんかタイトル違くてもいいんじゃあないかと思った。とはいえ、タイトル関係ないのはいつものことか。

僕はわりと考えてるけどね。

今更観てないとは言えない映画

沢山ある。

ETも観てないし、未知との遭遇、バックトゥーザフーチャーなんかも観てない。

そもそもSFが苦手だったのもあり、スピルバーグもこの前までちょっと避けてたようなきらいがある。

今号のブルータスではそんな特集をやっていた。(第2弾)

確か第1弾の時は黒澤明作品を一本も観たことないような状態だったので、それから比べれば観た本数もそれなりになってきたような気がするし、大分映画にも詳しくなったような気がする。

第2弾は本屋でペラペラめくってたら、町山さんのページがあって、そこだけ立ち読み。(いや、買えよ)

町山さんは観てない映画が思いつかないらしい。そりゃ、そうか。年季がなんたって違う。

町山さん曰く、映画は大体今までの映画のオマージュで出来ているから、それの元となる作品を観ていく。

そんな町山イズムを少しずつ受け継いで、(といってもなんの情報もないと全く分からないが)自分も過去の作品などを遡って観たりするようになったし、ジャンルの枠も気にしないようになってきた。

そんな中、クリード2が来年の1月11日に公開になる。ということで、ロッキーを初めて観た。(クリードは既に観ている)

こんなに面白かったのか。。。。

ロッキーは多分語られ過ぎてて今更語ることもない扱いなのだと思うんだが、こんなに面白いならもっと早く教えて欲しかった。

とりあえず今のところ、ロッキー2まで観た。ロッキー(1)は最高だけど、2は最悪。

なんてたって、はじめの5分で思いっきり泣かされ、ラストの5分で涙が止まらなくなる。

人生ベスト映画確定ですわ。

早く3からファイナルまで観たくてしょうがない。

ロッキーの良いところは、時代背景と自分自身を思いっきり反映していること。

ロッキーはスタローンが脚本を書いていて、アーウィン・ウィンクラーっていう制作の人に見せたところ、すごい気に入られる。そこで、売れない役者だった(当時既に30手前)スタローンは「俺が主演じゃあなきゃ、この脚本はやらねえぜ」的な事を言って主演を手に入れる。

が、当時全くの無名だったスタローンでは、全くというほどお金を貰えず、有名なアイススケートのシーンはエキストラを雇うお金が無かったために、2人っきりになったらしい。

結果として、あんなにいいシーンになっていて、金の問題でもないなと思ったりもする。

何が功を奏するかはやってみなきゃあ分からん。

他にもフィラデルフィアで実際に撮っていて、ペットショップなんかも実際のものをレンタル。エイドリアンがペットショップ屋にいるのは、籠の中の鳥として、自分を出せない羽ばたけない鳥としての暗喩。

ロッキーの亀は、冗談やムキムキの身体(甲羅)で自分自身を守っているが中身は弱い心を抱えている。

っていうか、みんな本当はそうなんじゃあないかと思ってるけど、世の中には自分の身体を鍛えない男もいるからなぁ。そういう人はよっぽど中身しっかりしてるんだろうな、凄いなぁと思う。

走ってるロッキーにオレンジを投げるシーンは、フィラデルフィア市民がボクサーのドキュメンタリーを撮ってるものだと思って、頑張れよ的な意味で投げたものらしい。

と、偶然の要素もロッキーという映画をとんでもなく良い作品に仕立て上げているのでもあるが、やっぱり何より良いのは脚本。

そもそもの時代背景はベトナム戦争敗戦、ウォーターゲート事件と悪いことが続いており、アメリカ全体が負けムード。プラス不況。

そんな中で復活の映画として打ち出されたのが「ロッキー」。

だからロッキーにとって勝ち負けは問題ではない “Go the distance” 最後までやる。やりきる。

落ちぶれた3流ボクサーが、リングネームのイタリアの種馬(stallion)を世界チャンピオンのアポロ・クリードに気に入られて、世界チャンピオンにいきなり挑戦できるというアメリカン・ドリームを手に入れる。

そういえば昨日の飲み会でミッキー・ロークがボクサーだったっていう話を聞いた。サントリーのcmに出てたとかなんとか。

ミッキー・ロークの「レスラー」。以前紹介したんだけども、この時のミッキー・ローク(ラム)はキリストのメタファーということで、ボロボロになり続ける。

ロッキーも同じ。ロッキーがアポロに何度も何度も殴られるのは、キリストが磔にされる前にボロボロにされることを表している。

それでもなおロッキーは立ち上がり、前に進み続ける。自分自身がゴロツキ(Bum)ではないことを証明するために。

もし”go the distance with Creed” 最後までクリード(アポロ)相手に最後まで立っていられたら。。。

クリードは信念という意味。つまり、信念とともに、最後までやり抜く。それこそが証明であり、エイドリアンが羽ばたくためであり、アメリカのためである。

ロッキーは自分自身のためだけには戦わない。エイドリアン、ミッキー、ポーリーといった周りの人達も一緒に引き上げていく。そしてフィラデルフィアアメリカまでを復活へと導く。

これを観て泣かずにいられるわけがない。。

しかもアメリカ人が好きな小物をチラチラと入れ込んでる。ラウンドガールやリングの鐘、物語の設定も独立200年の記念に合わせている。

立ち上がれ。ロッキーは再生の映画であった。

Get on up!!

間違えた。ゲロッパじゃあジェームス・ブラウンのsex machine だから違う意味になっちゃうよ。

エクセルシオール

エクセルシオールにおります。

“Excelsior” 。ドトールの高級版ということで、雰囲気はドトールよりも高級な感じ。でも吉祥寺のエクセルと、赤坂のドトールならそんなに大差ないんじゃあないかと思ったりも。赤坂のエクセルはかなり高級感あるけど。看板の色のせいかドトールの方がチープな感じはたしかにある。気がする。

“Excelsior”。ラテン語で「優れた、気品のある」もしくは「常に向上する」という意味の単語。常に向上するという方の意味を好んで使っていた、スタン・リーさんがつい最近亡くなった。

スパイダーマン、ハルクやアイアンマン、キャプテンアメリカX-MENなど様々なマーベルコミックの編集者にして、原作者。

この人はマーベル映画にカメオ出演しているのことでファンに人気らしく、また映画の中に探しに行かないといけないなと思わされる。そろそろマーベル観直したいところだったので、まあよし。

年末年始のシステマ難民になった時に、一気に観るっていうのはありかもしれない。また新たな発見があるかもしれないし。

来年の「キャプテン・マーベル」や「アベンジャーズ4」の予習もしたい。

スタン・リーさんがアメコミ界に持ってきた大きな2つの概念は、オタクのヒーロー化と、社会問題、政治問題を漫画に反映させることだった。

それまでのDCに見られた、バットマンやスーパーマンのようなマッチョなヒーロー像から、ひょろひょろのオタクをヒーローにしたスパイダーマン

多くの人々が共感できるのは後者なんじゃあないかと思う。スパイダーマンとかに勇気づけられた人はかなり多いんじゃあないかな。

少なくとも、小中なんかではずっと本を読んでるような、引っ込み思案だった自分としては、共感できるのはスパイダーマンの方。

伴うっていう漢字が読めないくらい小さい頃に観たのがスパイダーマンだったので、もしかしたら、あれが最初のアメコミ映画だった可能性は大いにある。

マーベルのみならず、アメコミ映画はだいたい好きなので、もちろんDCも好きなわけではあるが、超大金持ちのブルース・ウェインや、空も飛べる超人のクラーク・ケントよりは、ちょっと(かなり)頭のおかしいジョーカーとか、ヴィランへの方が引き寄せられる。

ヒース・レジャーが好きっていうのはもちろんあるけど。

スパイダーマンはもちろん、サム・ライミ×トビー・マグワイヤのスパイダーマンが好き。サム・ライミもオタクだし、トビー・マグワイヤは見た目がサム・ライミに似てオタク顔(ゴメンなさい)。当初はディカプリオでやるっていう話も出てたらしく、そこを断固として断ったサム・ライミは本当に偉いと思う。スパイダーマンがめちゃめちゃ好きだったサム・ライミ、どうしても自分で撮りたかったらしく、もともとあったスパイダーマン像を壊すことなく映画を撮ったのは本当に尊敬。ディカプリオの悪人顔じゃあスパイダーマンは向かないよね。

その想いが結果としてあの映画に現れてると思うと、オタクの力は偉大なりと思わざるを得ない。

初期のスパイダーマンと言えば “With great power comes great responsibility”

「大いなる力には大いなる責任が伴う」

サム・ライミの三部作の幹となってるのはこの言葉で、是非とも今度のアベンジャーズで使って欲しい。トムホに、ダウニーJr.かクリエバが伝えて欲しい。1番言わなそうなダウニーJr.が言ったら泣いちゃうかもしれないよ。

もう一つは、政治問題や社会問題をコミックに組み込んだところ。もともと僕なんかは虚構の世界に生きる、漫画脳、映画脳の人間なので、現実なんかは見たくもないのであるが、虚構とは現実の写し鏡なわけで、虚構の中に入っていくとどうしたって現実に辿り着く。それを最初に取り入れたのがスタン・リーさん。

アメリカだと(日本でもいくつかはそうだと思うけど)コミックの中にも政治問題だったり、社会問題が普通に入り込んでるからそもそもそこを分けたりなんかはできない。

キャプテンアメリカのTシャツだってそういう意味で着てる人もいるかもしれんしね。愛国者であるが故に、国を裏切らずにはいられない。

逆に「俺はアイアンマンだぜ」とか。

シビル・ウォーは別に童貞の70年漬けVS女たらしで金持ちのチャラいちょい悪親父、ってだけじゃあないのよ。

まあまあみんなで仲良くやろうぜっていうのが、デップーだったりするよね。デップーもスタン・リーなのかしらん?

時代はinclusiveness(包括性)ですからね。何でもかんでも分けて考えてたらあかんですよ。

何はともあれ

スタン・リーさんありがとうございました。

Nuff said!

ヴェノムを観たのでグールを語る

朝からヴェノム。平日の朝イチは映画館が空いてるのでよく行く。できれば全ての映画を平日の午前中に観たいくらい空いてる。映画館にとってはいいことではないだろうけど。今日は平日なのに午後になると人が溢れるようになっていて、結局観たい映画を観ることができなかった。直前まで予約渋ってたのが悪いのは分かっているけど。こうなると、午後の予定がガラッと空いてしまうから、たちが悪い。

もう少しこの午後の使い方を考えたい。本を読んだり、勉強したりしているから、それなりにいいとは思うけど、もう少し時間の使い方あろうにと思う。今日はギリギリまで予定入りそうだったからまあいいんだが。うむ。っていうか、眠くなるんだよな。

朝からヴェノムを見てきたので、今日はグールについて語ろうと思う。東京グール。完結した時に少し触れた気がするけど、改めて通して読んでみると考えるところが色々あったので書こうと思う。

冒頭でカフカの「変身」のくだりが出てくる。気になったので「変身」を読んでみた。主人公は社畜で、仕事に行かなければいけない時間に起きるとムカデになっている。

これはグールの主人公とほぼ同じで、違うのは大学生であることと、グールになる経緯が描かれていること。

昔好きだったご飯が食べられなくなるところも一緒。「変身」では腐ったチーズとかは食べられるけれど、グールは人間の食べ物が食べられなくなる。ギリギリ、コーヒーのみ。

1番大きな違いとしては、ムカデになったグレゴールは家から出ることもなく、ご飯を食べなくなって死んでいく。

グールは(グレゴールを縮めて読むとグールになるのね)むしろそこからがスタート。ある意味、「変身」に対するオマージュというか、別の視点で描かれている漫画である。作中に出てくる作家が「拝啓カフカ」というタイトルの本を書いているが、ようは東京グール自身が「拝啓カフカ」だったのかもしれない。

今回読み直してて大きく気になった所は、グールは「猿の惑星」の逆パターンとも言えるのではという部分である。何故そう思ったのかというと、グールの武器(カグネ)は身体から出るのだが、それは固体によって異なり、肩、肩甲骨の下、腰、尾てい骨の4つのどこかから出る。

それはジャンケンの強弱のように、相手によって有利、不利があったりする。その説明をグール捜査官(グールを倒す人、ざっくり)が説明する。グールは同種でも殺しあうようにできているんだよ。と。

これは、キラーエイプ理論なのかなと引っかかった。キラーエイプ理論とは、同種間で殺し合うようになったことによって、人間は猿から進化したという理論。

キューブリックの“2001年宇宙の旅”の最初の場面はそれを表しているし、“猿の惑星”で出てくる‘ape shall never kill ape’はそこからきている。

というかこれはキラーエイプ理論知らなくても引っかかると思う。だって人間は人間を殺すから。

実際チンパンジーも同種間で殺しあうので、キラーエイプ理論は現在では否定されている。

人間の知能を持った猿は人間よりも身体能力が高いので、(幼少期から熊と相撲してたハビブ・ヌルマゴメドフとかは例外かもしれんが。。。金太郎かよ!)ある意味では人間より上の存在となるし、グールも人間より遥かに高い身体能力を持っている上、人間を食べる。というか人間しか食べられない。

人間からグールになった主人公の金木くんは悩む。こんな身体になってしまって自分は悪人になってしまったのではないか。と。

普通(あんまり使いたくない言葉ではあるが)、人が人を食べ始めたらそれは狂人である。だが、グールはそういう種族である。そういう種族に生まれたことは悪なのか。そんなこともグールの一つのテーマになっている。

善悪。善悪の判断とはなんとも難しい。だからこそイーストウッドは映画で同じような内容を問いかけ続けるし、ノーランは“ダークナイト”であれだけ強烈なヴィランを作り出した。7部でいうところの「ネットに引っかかったテニスボール」のようにどちらに転がるかはあまりにも微妙なものである。

東京グールの中で梟は語る。

「奪う行為は等しく悪だ。生まれ落ちたその瞬間から何かを奪い続ける。食物、かかわりあう人々、肉親からですら生きる限り、屠り、殺し、奪い続ける。命とは、命とは悪そのもの、罪を犯し続けるものの事。」

これはイーストウッドの問いかけに対する一つの答えである。

では悪であるがゆえに殺し続ける事しかできないのか、蛇の囁きによって禁断の果実を食べた人々、は船の上で爆弾のスイッチを押すしかないのか。

猿と人は殺し合わなければいけないのか。“猿の惑星”では、猿と人間は共生の道を辿る。

地球外生命体のヴェノムはエディと共生できるだろうか、殺し合うことしかできないのだろうか。

そんなシリアスな疑問を軽く吹っ飛ばす、“ヴェノム”。洋画実写版ど根性ガエル

1年間も焦らされたせいで、逆に観る前に冷静になってしまい、本当に面白いのかなと心配になっていたけど、ミシェル・ウィリアムズ出てるし大丈夫だろうという、いい女の謎の包容力で不安を落ち着ける。

ヴェノム。

スパイダーマン3”やCMのイメージからダークなものを予感していたけど、蓋を開けてみたらど根性ガエル。僕世代ならドラえもんとでも言おうか。まあでも一緒になってるから、ど根性ガエルか。

トム・ハーディの顔でのび太くんやっちゃうんだもんな。

それはずるいわ。今年なんだかんだ150本近く観たけど、1番笑った映画だと思う。

誰とでも一緒に観れる映画です。

是非劇場で。

許されざるもの

 

 

最近似通った題材の映画を観ることが多くある。

 

正義の執行である。

 

 

 

特にイーストウッドはこの題材を昔から扱っていて、人が人を裁くことは正しいのかを問いかけてくる。答えのない問いかけ。だからこそ、常に問いかけ続けなければいけない。

 

 

“許されざるもの” 、“ダーティー・ハリー”、 “イコライザー2”、そして“ブレイン・ゲーム”。

 

 

それぞれ違った角度からの問いかけではあるものの、1番大きな問いかけは同じように感じた。

 

 

“許されざるもの”では昔は凶悪な殺し屋、賞金稼ぎだったイーストウッドが、ある女性と結婚し、改心する。2人の子供ができるが、その女性は死んでしまいイーストウッドはヨボヨボのおっさんとして登場する。賞金を目当てに、娼婦の顔に傷をつけたカウボーイを殺しに行くが、久々に握った銃は的外れで、馬にはろくに乗ることもできない。どうにかこうにか元相棒のモーガン・フリーマンと、話を持ってきたキッドと町に辿り着く。

 

 

この映画では人間の二面性を暴いていく。悪いやつだと思ってたカウボーイは、そんなに悪いやつではなかったし、良い人だと思ってた保安官は実は独裁者だった。銃の名手のモーガン・フリーマンは1発撃ったら怖じ気付いて帰っちゃうし、ヨボヨボのおっさんのイーストウッドは酒を飲んだら人間を超え、撃ち殺しまくる。

 

 

 

最後のシーンではヨボヨボだったイーストウッドが酒を飲んだだけで最強のガンマンへと変身する。

 

 

カンが戻ったというレベルではなく、変身する。

 

 

野暮な説明は映画の中ではしてくれないが、これは紛れもなく人間から上位への変身である。

 

 

“ダーティー・ハリー”では分かりやすく、十字架が何度もイーストウッドの後ろに出てきて、イーストウッドは神の代理人なのだと分かる。ゾディアック事件のサイコパスを描いたこの映画では、法の正しさから見つめ直させられる。

 

 

 

ある意味ではバットマンもダーティー・ハリーのような存在である。警察が捕まえられず、法が裁けない悪人たちを捕まえるのがバットマン。撃ち殺すのがダーティー・ハリー。ダーティー・ハリーは一応警察なのにバットマンよりひどい制裁をかます。鹿を殺すためのマグナムで人を撃つ。どんな警官だよ。

 

 

まあバットマンもジョーカーが何度も病院から出てきちゃうから、コミックでは首絞めて殺してしまったらしい。その時の大統領のレーガンバットマンを倒すために派遣したのがスーパーマンだとかなんとか。

 

 

 

十字架の話でいうと、“ブレイン・ゲーム”では、それこそ何回も十字架が出てくる。そこまで出さなくてもいい加減わかるよってくらい出てくる。

 

 

ブレイン・ゲーム”の場合は正義の執行によって悪人を倒すというより、慈愛によっての殺人は許されるのかっていうのが大きなテーマにあった。“ブレイン・ゲーム”の場合はスーパーパワーが元々あるから、神の代理人(きどり)っていうのはわかりやすい。

 

 

 

最新作は“イコライザー2”。正直にいうと、1を観てないのでイコライザーが凄腕のエージェントっていう設定以外はよくわからない。

 

 

元々イコライザーは凄腕のエージェントだから、自分の実力でどんどん執行していくんだけど、最後に神風が吹く。

 

 

 

Kamikaze

 

 

エミネムの最新アルバムの名前もKamikaze 。神風って英語でも通じるんだなって思った。ひきこもりや痴漢のように。少なくともKamikaze はエミネムによって全世界に知られることになった。

 

 

 

人は皆良い面も悪い面を持っている。

 

 

フレディに光と闇があるように、誰にでも光の強さや種類は違えど、光もあれば闇もある。

 

 

アダムとイヴが林檎を食べた時から人間は罪を背負い続けている。

 

 

 

では許されざるものとは誰のことなのか。

 

 

 

答えの一端は“許されざるもの”の中にある。

 

 

ただイーストウッドは答えを丸ごとを言うようなことはしない。

 

 

ただ問いかけを残していく。

ボヘミアン・ラプソディー試写

ボヘミアン・ラプソディを試写会にて、一足お先に観させていただきました。

圧巻です。

この時期(11月くらいから)に出たってことは、当然アカデミー狙ってるとは思いますが、獲るんじゃあないかなと思いました。

他の観てないから本当は比較のしようもなんもないんですけどね。

でもそれくらいの衝撃はあります。

最後の21分は涙なしには見られません。

ミュージカルみたいな感じで、華やかなフレディの一生を歌って踊ってとなるかな、とはまあ思ってなかったんですけど。とりあえずクイーンの楽曲を並べていく感じでもなく、どちらかというと静かなシーンが目立つ映画でした。

観客の視点とフレディの視点を重ねる場面が多く、感情移入しやすいようにできてたと思います。

ここで、フレディについて軽くおさらいすると、フレディはイギリスに住む、東アフリカ生まれのインドからの移民。で、そもそもの名前はフレディ・マーキュリーではないです。そしてゾロアスター教。でゲイで、エイズにかかります。ちなみに出っ歯ですね。

超弩級のマイノリティ

ちなみにフレディを演じてる俳優さん。ラミ・マレクさんはギリシアの地も引くエジプト系アメリカ人。

ここら辺をおさえておくだけで、なんとなく“なぜ”、“今”、クイーンなのかが分かる気がしますね。

日本でも生産性云々言ってる人いましたが、おんなじことフレディに言えんのかって感じですね。

ステージの上での華やかな衣装や、激しい動きからは想像できないほどに孤独なフレディ。

“レイ”でもそうだったけど、大スターほど心の奥底に孤独な少年を抱えている。

あまりにも強い光に当たり続けるが故に、あまりにも濃い闇に包まれる。

一見矛盾しているようで、表裏一体。

光と影。

現実と虚構。

あまりに脆い心に悩み続け、フレディは1人孤独を抱え続ける。華やかなステージライトに彩られながら。

それでもフレディは “I am the champion” “I will rock you” とは歌わない。

打ち明けられない弱さを心に抱えるから、彼の歌は人々に届き続ける。

最も弱い彼自身を歌うから、フレディの歌は弱い人々にこそ響く。

クイーンは古いバンドなんかじゃあない。

今現在に生きる人々にこそ届く歌

見逃していい場面は一つもなく、聞き逃していい曲は一曲もない。

クイーンにかつてハマった人も、大好きな人も、全く知らない人も、全ての人が楽しみ、感動できる映画です。

ぜひ劇場でご覧ください。

コネクティングドット

基本的に運がない男なので、懸賞とかに応募しても当たった事ないし、ギャンブルも好きだけど、あまりやらない。弟との絶対的な運量の違いを見たとき、才能の違いを見せつけられた感じだった。それ以来クジ引きなんかは絶対に弟に引いてもらう。

ただそんな僕にもたまにはいい事あるもんで、応募してたボエミアンラプソディの試写会に当たった。酔ってたのもあるけど、テンションが上がりすぎて手紙を失くしてしまうくらいには嬉しかった。

逆に失くした事でテンションだだ下がりだったけども、なんとか見つけ出し、ホッと胸をなでおろす。

ただ試写会は1組2人。まあ1人でもいいんだろうけど、行った事ないからどんな様子なのか分からない。

オペラの時は男女で行くもんだろって思ったけど、完全に固定観念だった。

行きたいって言ってた後輩は平日の夜ってこともあり、残業確定だそうで、来られず。

久しぶりにマネーペニーでも呼ぼうかって感じだけど、クイーンって僕の世代知ってるもんなんかね。

20代後半から30代前半くらい。

キムタクのドラマで使われてた “ I Was Born to Love you” とか“We will Rock You” とかは聞けば知ってるとはもちろん思うけど、クイーンが好きなんです。とかっていうのは割とマイノリティなんじゃないか。

でも、父親が好きだからとか、あの世代の音楽が好きとか、ロック好きとかって考えると結構いそうだなとも思ったり。思わなかったり。

っていうかマイノリティっていう意味では、薄々感じてはいたけど、オタクの僕はマイノリティっぽい。

同世代の人たちに漫画とか映画とかの事を熱く語ると結構引かれる。

こういうオタクらしさっていうのは出しにくいし、家系的に人の悪口とか嫌がる事を言いまくれるっていうのもあって、なかなかベラベラ喋りにくい。一回考えてからじゃあないと、これは喋って大丈夫なのかどうか判断がつかない。しかもだいたい「これ言ったらあかんやつや」って事が1番最初に出てくる。目上の人と喋るんはそういう意味でも難しい。

口は災いの元って事で、だったら無口でいた方がいいかとは思ったりもする。周りには割と無口だと思われてるから、(実際にめんどくさがりってのもあるが)喋らんでもいいかと思ったりもする。

そもそも武術やってます。しかもシステマっていうのはかなりマイノリティだろって言われればそうかもだけど。

クイーンの話。

クイーンは町山さんが中学生くらいの時に流行り出したらしいから年齢層的には50からくらいのもん。40代くらいまでは結構メジャーかもしれんが。

フレディは僕が生まれた年に死んでるし。

マイケルジャクソンとかも、死んでから再ブレイクっていう現象があるから、30代とかもそういう意味では知ってるかもしれない。

結局よくわからん。

なぜならその時代に生きれてないから。

その時代を生きてきたってのはやっぱりかなりの強みだなと改めて思う。

僕は見た目がおっさんだからなのか、結構いいオヤジ、カッコいいオッサンへの憧れがあったりして、クリントイーストウッドとかアルパチーノとかロバーデニーロとか大好きだし、ジェームズボンドも大好き。

かといってああいう風には行きられんところが残念だったりもするが、これでも努力はしてたりしてなかったり。

当時の映画を観れてもその時代の雰囲気のまま味わうこととはやっぱり違うなと思う。例えば “ヒート” とか劇場でリアルタイムで観た人なんかはめちゃめちゃ羨ましい。当時の社会情勢だったり、雰囲気だったり、噂話とかを楽しみながら映画を楽しむっていうのは今となっては味わえない贅沢。

今の僕にできることといえば、点を集めることくらい。もちろん今の映画も観るけど、昔の映画なんかはちょっとずつ点で拾っていくしかない。

町山さんの話を聞いたり、映画の解説を聞いたり、ネットで調べてもそれは断片であり、点である。

その点を少しずつ繋げていく。その作業も点がたくさんないと出来ないし、点が存在しないところには繋げる線は伸ばしていくことはできない。

かの有名なリンカーンゲティスバーグで、、

じゃなかったジョブスはスタンフォードのスピーチで点と点を繋げなさいって言っていた。

武術にしても、創始者が亡くなった後にはそうした点を拾っていくことしかできない。

その武術の歴史を読んだり、DVDで技を見たりしても、結局点を拾うことにしかならない。

銀河系にある星のいくつかを眺めてることは、その星に住むことにはなりえない。

幸いシステマ創始者が生きてるとはいえ、僕が触れてる歴史っていうのはかなり短いもので、それまでの歴史については点を集めていくことしかできない。

かといって自分にできることは少しずつ点を増やしていくことしかできない。できないことはできないんだから、できることをちょっとずつ積み重ねる。

運量の少ない僕にはそれくらいのことしかできない。

でも頑張って生きてると試写会に当たったりもする。今までだったらどうせ当たらんと応募すらしなかっただろうけど。

生きてる時代になんとなく生きてみる。

フレディがいない時代にも、フレディの点を拾えることに感謝して。