だらっと和田パン

話が跳んだり跳ねたり行ったり来たり。映画とか、システマとか、漫画とか。ネタバレあります。

Individuals

僕にとって初の大阪セミナーに参加してきました。アフターも含め、東京とはまた違う感じでとても良かったです。金銭的な問題がなければ毎セミナー参加したいです。今回は初めてなので結構お金かかってしまいました。とりあえず9月にあるであろう、今年の僕にとってのメインイベントに結構な額かかると思われるので、しっかり計算しつつ行きたいです。

今回のセミナーのテーマはストライク。本当にストライクやるのかなって多くの人が思っていたと思いますが、やりました。

今回ザイコがよく言っていたのは、群れとしての群衆と、個々の集まりとしての群衆を使い分けるということ。peopleとpersonsって僕の中では解釈してます。ザイコはindividual と言ってました。

このまま大阪ザイコセミナーの振り返りと行きたいところですが、今回は別のお話。

Glass。シャマランの最新作で、アンブレイカブル、スプリットの続きです。邦題はミスターガラスですが、凄い発音しにくいのでグラスでいきます。

前作の2本を観てると面白いという評判だったのですが、見終わった時、なんかこの映画変だなって思いました。

前作までの流れと一緒というか、シャマラン映画は大体そうらしいんですが、スーパーヒーローの存在の証明です。前作までと違うのは今回は普通の人々がスーパーパワーの存在を知りながら、その持ち主の足を引っ張るというものです。

僕の感じた違和感を確かめるべく、色んな解説を聞きました。その違和感の正体はシャマラン作品の裏にある、アインランド主義という、いわゆるエリート主義でした。

アインランドは小説家で、ハリウッドで脚本家になりたかった人です。ソ連になったことにより、アメリカに逃亡してくるはめになったので、共産、平等を酷く憎んでいます。

アインランド主義についてだけで、かなり話せるのですが、要約すると一部のエリートが世界を変えるのだから、そのエリートの自由を保証しておけばいいんだというものです。普通の人々はどうでもいいから。

シャマラン自身がかなりそう思っているらしく、自分自身を投影させた、物語を作れる天才(シャマラン)が世界を変えるという作品の案を出したら、ディズニーに「これは自分に入り過ぎてる」ということで却下されました。このことで自分を曲げないシャマランはブチ切れ、話し合いの場からいなくなり、ディズニーから離れます。

また、シャマラン作品に共通してる概念として、もう一つ、醜いアヒルの子があります。醜いとバカにされていたアヒルが実はもっと美しい白鳥だったという話です。

スプリットにせよ、グラスにせよ、天才は普通でないが故に傷つけられるが、その後自分自身の才能を見い出し自分こそが天才だと気づくというところで終わります。

これ自体はそんなに特別なものでもなく、よくあるといえばよくある作品です。これにアインランド主義がつくことによって、スーパーヒーローVS普通の人々という構図が出来るわけです。

ありえないですよね。

だってヒーローは普通の人々を助ける存在だから。

そしてこの作品は、シャマラン自身の復習としての作品なんですよね。

ヒーローはアベンジはしてもリベンジはしません。自分では戦えない人々のために戦うのがヒーローです。

ここで僕の昨日のツイートに繋がります。

僕の中で内包されている、弱者救済と弱肉強食の矛盾。自分で戦える人のためには戦わないって事です。凄い簡単に言うと。というか僕にとってこのツイートはもうあんまり意味をなしてません。

だってこの時の僕の言っていた弱者っていうのは、peopleであってpersonでもindividualでもないからです。

意味ないですよね。

実体のない群衆としてみて、それと戦う。

やりがちですね。

女性蔑視。男性嫌悪。反韓反日。大体差別的なものってそういうものでしょう。

個々人を群衆のカテゴリーの入れて解決しようとする。

今回のザイコの言っていたIndividualっていうのはそういう部分も意味してたんだろうなと思います。

ただそれがインターナルや意識的な部分だとしても、個々人と向き合うのは疲れてしまいますよね。だからこその体力、だからこそのフィジカルなんだろうと思います。

ヒーローになれない人でも、いやだからこそトレーニングが必要なんだと思います。

やれるならやったもん勝ち

力こそパワー

力isパワー