だらっと和田パン

話が跳んだり跳ねたり行ったり来たり。映画とか、システマとか、漫画とか。ネタバレあります。

セミナーから一か月、セミナーまで一か月

  

早いもので、ザイコセミナーから約一か月半が経過しました。あれからというもの、様々なところへ出稽古をしに行って、少しでも復習の時間を多くできるようにしております。

今まで、セミナーなどでお見かけしたり、少しばかり会話していた方たちとも、多く練習できり、会話したりできて、楽しく過ごさせていただいております。

 

 

そんな中、気が付いてみれば、3月も終盤に入ろうとしています。もうすぐ平成という一つの時代が終わる前に様々な著名人の訃報が聞かれることが多くなっているように思います。そして、スポーツ界ではついにイチロー選手が引退しました。

 

 

あまり野球に興味がない自分ではありますが、日本スポーツ界を引っ張ってきた異質な存在として、イチロー選手のトレーニングや考え方に注目していた人は多かったのではないかと思います。

 

 

当たり前のことかもしれませんが、海外での注目度も非常に高く、改めて一人のアスリートとしての尊敬の念を深めるばかりであります。

 

 

3月が終わるということは年度末ということです。そして自分にとっては4月からは転職先で働くことになるので、新生活という言葉が似合いそうな気もします。

 

まあ自分としてはいつも通り、「やるべきことをコツコツと」しかできないので、特に浮かれたりすることもできずに、終わらせるべきを終わらせ、行うべきを行っております。

 

 

仕事先が変わるということは、環境が変わるということです。なかなかに忙しく、色々な所へ飛んでいくことも多くなりそうで、そうなってくるとシステマを今までのようにはできないだろうなぁとも思っております。

4月から一か月近畿で研修、みたいな話もでたりで、次に会うのはミカエルセミナーで、ということになる方も出てくるかもしれません。

 

そもそもミカエルセミナー行けんのか?という話にもなりそうですが、絶対に行くぞという強い気持ちと、ゴールデンウィークだし大丈夫でしょう、という軽い気持ちを合わせて、先ほど申し込みしました。

 

 

今年度は自分の練習の拠点が赤坂に移ったこともあり、クラスに出る回数がかなり多くなりました。ほぼ毎日あるクラスと、月謝制による練習出放題というのはかなりありがたいもので、なんだかんだ、平均で週4回は参加していたような気がします。

 

 

クラスに多く参加できた。というのはとても良かったのですが、片道1時間の道のりと練習後の飲み会に参加しすぎた結果、最近自分で練習する時間が少なくなっていたように思います。

 

そしてザイコのセミナーの後ということもあり、より一層何を練習したらいいのかわからなくなっていました。

 

 

そうした時にやっぱり立ち戻るべきは呼吸ということで、最近はどこに行くにも呼吸を意識するようになりました。

 

 

そもそもザイコセミナーが呼吸のセミナーだったからともいえます。

ただ、ザイコの言葉は時にハイデガーのような難解さを感じてしまうことがあり、難解さを頭で考えてどうにかしようとすることで、感じる力を失ってしまいがちです。

 

 

言われたとおりにやるだけで見えるものがあるのに、自らそれを手放してしまうことがいかに多いかを改めて感じる次第です。

 

 

呼吸という次元、呼吸の状態を呼吸で整える。

 

 

自分が最近やっているのは、呼吸を全身に通して、感覚を広げ、広がった感覚に呼吸を合わせていく。そうすると自分が初め全身に呼吸を通した時よりもはるかに広く呼吸できているように感じます。そして、実際に身体も大きく開いて姿勢が良くなります。この時いかに普段の呼吸が足りてないのかを実感するのです。この感覚を壊さないように街中を歩いたり、今までやってきたワークをやったりしています。

 

どうしても丁寧に繊細にやってしまうのですが、早く感覚に慣れて、自由に雑に動けるようになりたいなと思っております。

 

 

ちなみに、なんだかんだとプリズナートレーニングを続けています。最近ではかなりハードになってきて、回数が伸び悩んでいたのですが、この呼吸の状態をできるだけキープするようにすると不思議なもので回数が増やせるのです。

 

ただ、ココが面白いのですが、例えば前回14回できたので、今回は15回やりたいと思うとします。そこで状態を作り、その状態を崩さないようにトレーニングを行います。最初のほうはそれなりに状態を保っていられるのですが、目標回数を意識した瞬間この場合13回身体が重さをもってしまい、かなりきつくなります。

 

 

いかに自分の状態が思考に引っ張られているかを感じるとともに、言葉の持つ力のようなものを感じます。

 

 

しかし、こうした感覚がおぼろげながらもみえてくると、ザイコがセミナーでちょくちょく言っている、見た目のフィジカルトレーニングを呼吸のトレーニングとして扱っているという意味がようやく理解できるのです。

 

 

嘘言ってたわけじゃあないのか、疑ってすいませんと思うわけです。ここでも素直になれない自分が浮き彫りになりますね。「人間はみな自分の見たいものしか見ようとしない」といったのはカエサルだったかな。。。

 

 

あとはその感覚をもってスティックやら、シャシュカに自分を動かしてもらうっていうのをやり始めました。

 

呼吸に動かしてもらったり、武器に動かしてもらったりと、より一層他力本願に変わりつつあります。

 

 

自分のからだからいろんなものが抜けていくと、2001年宇宙の旅のようにモノリスによってからだを持たない存在になり、攻殻機動隊のようにいろんなからだをもつっていう発想もわからなくはなくなってくる。

 

現代における、薄いデータ、厚いデータも近い話だけども。

 

 

結局今の風潮的に身体に戻ってくるのも人間の限界かもしれんが。

 

 

というわけで、ミカエルセミナーまであと一か月。それまでに環境がどう変わるかはわかりませんが、できることをやるのみなのです。

カフェオレ

グリーンブック。ようやく観れました。作品賞もROMAが取るのではないかと思っていましたが、観てみたら納得の一作でした。

 

ROMAもおすすめの作品ですが、白黒映画で、時代背景などとも相まって雰囲気が暗めなので、グリーンブックのような明るく、笑えるけど社会問題にもしっかり焦点を当てている。そして事実に基づく話。誰もが楽しめるという部分も含め、作品賞を取っても反論の余地がない作品でした。

 

 

そういえばROMAが劇場公開するそうで、観る前はなんで劇場公開しないんだろうと思っていましたが、観た後は、あの映画は劇場公開しなくてもいいんでなかろうかという思いもありした。特に反対なわけではありませんが。

 

 

そしてついに最後の「午前10時の映画祭10」のラインナップが公開されました。今から非常に楽しみです。スピルバーグの3作品に始まり、バックトゥザフューチャーの3本に終わる全27作品。どれも名作中の名作といって過言ではないと思いますが、僕はそのうちの7作しか観たことがなく、観たことがない名作たちを初めて観るのがスクリーンで、とても幸せだなーと思うわけです。

 

 

と、いうわけでハート・ロッカーの話でもしますか。(どんなわけだ)

ハート・ロッカー。キャサリン・ビグロー監督が女性初のアカデミー監督賞を撮った作品です。最近だとこの監督はデトロイトゼロ・ダーク・サーティーで有名ですね。

 

 

ずっと気になってはいたのですがなかなかタイミングが合わず、最近ふと話に出たのでようやく観ることができました。

 

 

ゼロ・ダーク・サーティーは観ていたので、戦争描写や人物の心情を描くのがうまいのは分かっていましたが、ここまである種の体育会系的な男くさい感じを描けるとは思いませんでした。っていうかむしろ男より上手いんじゃあないか。僕なんか女性の気持ちなんか全然わからんけどなー。とかオスカー監督と比べるのがおこがましいことすら考えてしまいます。ある意味BLっぽいと言えなくもないのかもしれんけど。

 

心理学の先生も結局のところ、どの性別にしても、自分が生きる性別以外のことはわからない、性別の違いを語るときにはそれぞれの性別の方々に話してもらうのが良いとのことを言っていました。そう考えるとやっぱりすごい。

 

そもそもお前は人間の気持ちがよくわかってないと言われればそれまでですが。

 

 

映画に限らず、男性作家の女性の書き方が押し付けっぽい、固定観念に縛られたもののことはよくあるので、そう考えてもすごいなあと思う。もちろん実際の軍人の話であったり、アドバイザーや役者の意見もあるにはあるんだろうけど。

 

 

そしてこの映画のすごいところは、そんな男たちはお互いに敵の見分けがついていない所です。

 

 

主人公のジェレミー・レナーは基地にDVDを売りに来る地元の少年ベッカムと仲良くなり、サッカーをしたりする場面があり、自分の子供かのように(自分が家にいないことへの贖罪の気持ちもあるのかも)優しくします。

 

 

しかし、ある時、作戦中にベッカムが殺されて人間爆弾にされているところを発見し、いつもなら陽気に爆弾処理をするレナーが、この時から戦争に対して考えを持つようになってきて、全くブレない機械のような男が人間の心を取り戻し始めます。

 

 

そして、ベッカムを殺した犯人を見つけるために暴走し、仲間をケガさせ、軍のルールを破り、歯車が狂い始めます。そんな中、基地にDVDを売りに来たベッカムを発見し、自分が敵だと思っていた人と、現地の人を全く区別することができていないのだとわかります。

 

 

そして、そもそものテーマになっている爆弾処理班という武器を無力化するという、戦争自体への否定をする存在も、現地の人からしたら敵であり、石を投げる存在に見えているわけです。

 

 

これは自分たちが見ているあやふやな情報をもとに相手を判断しているということがわかります。

 

 

人種差別はまさにここから始まっているのではと思います。

 

グリーンブックの二人組は白人と黒人です。

 

CMで使われていた言葉で、”If I’m not *black* enough and if I’m not *white*enough, then tell me, Tony, what am I? 「黒人でも白人でもなければおれはいったい何者なんだ?」

ピアニストとして黒人ながら高い地位でいるも、バーで飲むことも招待されたホールに付属のレストランに入ることもできない。白人からも差別され、地域の黒人からはお高くとまりやがってと差別されます。

 

 

トニーも見た目は白人ながら、イタリア人なので半分黒人だと差別され、スラム街のようなところで腕っぷしと、でまかせでのし上がってきたので、逆にホールの中に入れない黒人とは仲良くギャンブルできても、ホールの中の白人からは下に見られます。

 

 

お互いに居場所がないのです。そんな二人が旅を続けていく中で、歩み寄り、清濁併せもつようになっていくところに人間の成長と可能性を感じるのでした。

 

 

肌の色に限らず、白黒つけられるもの、正解、不正解で分けられるものはほとんどないので、基本的には白黒つけないカフェオーレがちょうどよいのではないのかなと思います。味は飲んでみてから判断すればいいのだから。

 

 

コーヒーはブラック派ですけれど。

 

それにしてもバディムービーというのはやっぱりいいですね。いろんなものを超えていく。

I’m tryin’ real hard to be the shepherd

3月8日は国際女性デー。だからというわけではなかったのだが、「82年生まれ、キム・ジヨン」を読了した。

 

何とも言えない。何とも言えないのは面白かったとかそういうレベルで片付けられる話ではないからである。


話は82年生まれのキム・ジヨン氏が出産後の鬱により他人の人格が乗り移るようになり、カウンセラーのところへ通うようになる。そのカウンセリングの記録形式で、82年に生まれたキム・ジヨン氏の人生を赤裸々に振り返る。その中で語られるキム・ジヨン氏の人生というのはありきたりな一人の女性人生として描かれているが、ありきたりな女性の人生がいかにハードなのかということを表している。

 

 

僕にとって韓国というのはかなり身近な存在で、もともと韓国ドラマをよく見る家庭に育ったので、韓国の文化については割と知っている。好きな恋愛映画歴代1位はいまだに「猟奇的な彼女」。「猟奇的な彼女」が直訳なのかどうかはよくわからないが、僕的には韓国の女性は結構気が強い女性イメージがあり、僕自身の昔の彼女もあんな感じだったので、別に猟奇的でもないんじゃあないかと思っている。

 

ある意味韓国人女性に対するステレオタイプといえるが、日本人女性に対する、3歩後ろをついて歩くというものよりかは、よっぽど当てはまっているような気がする。ステレオタイプなんて時代とともに変わるもの。

 

さらっと触れてみたが、僕の昔の彼女は韓国人でニューヨークにいた時に知り合った。あまり長い期間付き合っていなかったので、僕の韓国語はあまり上達しなかったが、韓国の文化や韓国の映画には多く触れさせていただいた。というか、何を隠そう僕の映画好きは彼女の影響なのである。そう考えると、人との出会い、一期一会、一人の人間が他人に与える影響は思いの外大きいのではないかと思い、いいかげんに生きてはいけないなあと思ってみたりする。


「82年生まれキム・ジヨン」で描かれる女性は大きく3パターン。おばあちゃん、お母さん、そしてキム・ジヨン氏である。


おばあちゃんはザ・男尊女卑社会に生まれ育ってきたため、絶対的に男を立てていこうとする。それがたとえ自分の孫であっても自分の考えを突き通し、孫にまでその考え方を押し付ける。


お母さんはそういう考え方がはびこる社会での抑圧を受け、自分たちの子供たちにはそういう思いをさせたくないと常に考えており、どんなに景気が悪く旦那が失業しても、自分たちの力で娘たちにはちゃんと大学まで行かせてやろうと苦心する。


そして、キム・ジヨン氏の代である。これはおよそ現代の日本の女性と同じようなものだと思われる。ただ、キム・ジヨン氏が大学へ行き、就職するころの韓国はかなり景気が悪かったようで、そのあたりの就職難な部分も同世代の自分としては分かる部分があるように思える。


だが、しょせん分かったように思えるとしか言えないのである。


なぜなら僕は男性だからである。


フェミニン映画もよく見るし、女性作家のエッセイや小説、ハリウッド女優のインタビューも読み、フェミニンの記事を読むように努力している。かなりフェミニンよりの考え方を持っている(と思っていた)自分もこの本を読んで打ちのめされた。


全然わかってなかったなあと思うし、自分の無知さを呪うばかりである。

というか現代の男性はどれくらい理解しているのだろうか。多数が理解できていれば、そもそもフェミニストが生まれる必要もなかったのだから、男女間での理解のギャップは思いの外大きいのではないかと思われる。

 

この本の中にもあるのだが、OECD加盟国中、男女の賃金格差のワースト1位が韓国である、日本は3位である。隣国で近い分政治的には争っているようであるが、内情としては似たり寄ったりなのではないだろうか。向こうはすでに女性大統領が出てるっていうのはあるけれども。

 

賃金の問題はMetoo運動の中でも盛んに取り上げられていているし、あれだけ煌びやかに見えるハリウッドの世界からMetoo運動始まるのだから、順位に関係なく、大きな問題としてとらえなければならないのだろう。賃金に限らず。
最近のハリウッド女優の記事では必ずと言っていいほど、フェミニズムの話が取り上げられている。

そして、多くの女優は映画の多くの女性像は男性の理想像であることが多く、女性の監督、脚本化、俳優の数が増えてくればより現実的な女性像を描くことができるのではないかと考えている。

 

内面のセクシュアリティにかかわらず、男性である以上女性は意識するし、女性にも意識される。女性が夜道で後ろを男性に歩かれたとしたら、たとえ僕のように体の小さい人でもそれなりに意識するだろう。というか僕も夜道で人が歩いていたら警戒するけど。

 

結構努力していたつもりだったんだけれどなぁという感じである。
なんとも I’m tryin’ real hard to be the shepherd.(羊飼いになろうと本気で努力してる)と改めて思い直す次第であった。(このセリフわかる人いるかしら???)


結構古い映画に出てくるセリフで、最近見直したときに妙に気になってしまい、ずっと心に引っかかっているセリフである。


これから入る新世界にはフェミニン色の覇気はほぼ必須といえる。


イーストブルーにいた間は覇気なしでもどうにかなるが、新世界では標準装備と言えるだろう。鎖国と差別が好きな国がどう変わっていくのかは興味があるところではあるが、はたして国際基準に乗っていけるだろうか?? 
時代遅れになりつつある、テレビ業界がいまだにあれだけの力を持っているというのも不思議であるが、20年後今の小さい子たちが大人になるころにはさらなる加速度でいろいろなことが変わっていってしまうだろう。


覇王色の覇気でももっていればいいのだろうけど、ないものにあこがれずにできることを地道にやっていく。

アカギの言うように、「責任をとる道は、もっと地味でまっとうな道」なのである。

女王陛下のお気に入り


女王陛下のお気に入り
面白かったです。町山さんの言葉を借りれば、苦笑いコメディ。
なかなかゲラゲラは笑いにくい内容だったりしますが、ついクスッと笑ってしまうような作品でした。

 

女王を中心に、権力を持っているのは女性。もちろん軍人などは男性ですが、女性が媚びるようなシーンはなく、むしろ男性は頭が悪い、もしくは子供らしさが全面的に押し出されており、それを女性が利用して、ないがしろにして、バッサバッサと言葉や態度で切り裂いていく様は見ていて痛快でした。エマ・ストーンの初夜のシーンとか、男の僕が笑っていいんだか、悲しいんだか、わけわかんなくなりそうでした。女性の皆さんは爆笑してください。

 

英国版大奥と、色々なところで言われていますが、まさにそのまんま。レイチェル・ワイズエマ・ストーンの二人の対決は見ていてハラハラドキドキさせられっぱなし。

 

主演の女王役、オリバー・ストーンはトランプをモチーフにしたと本人が言ってるように、わがまま放題のやりたい放題。政治のことは一切わからず、女王にされてしまって自分の意見はもっていないし、力の使い方も全く分かっていないので、自分のコンプレックスに触れるものを権力でなぎ倒すことしかできない。

 

そんな権力者をいかに利用するかという争いの中で、巻き添えを食らうのは描かれない
戦争に行っている人々。そして圧政に苦しむ民。
アメリカ政治のみならず、韓国や中国、もちろん日本の政治にも関係するような内容で、笑うに笑えず、苦笑いをし続ける2時間でした。

 

この作品、さまざまな部門でアカデミー賞にノミネートされていますが、特に助演女優賞エマ・ストーンレイチェル・ワイズと二人ともノミネートされていて、どちらが取るのか非常に楽しみです。

 

僕はレイチェル・ワイズのカッコいい女性像に引き込まれてしまったので、ぜひとも助演女優賞取ってほしいなと思っております。前回取った時のナイロビの蜂はこれから観てみたいです。

 

Twitterでも呟いたのですが、ぼくは前々からカッコいい女性というのが好きで、ふと最近これはココ・シャネルが最初なんだなと思い出しました。

 

中学の頃か、高校生の頃なのかは定かではありませんが、ココ・シャネルにはまった時期があり、そのころからカッコいい女性への憧れがあったように思います。


しかし、一方でそのくらいの時期、特に高校生以降は部活が体育会系だったこともあってか、男らしい男を自分自身目指すようになりました。


そこらへんは読んでいた漫画なんかからも影響を受けていたように思います。
特にジャンプの全盛期というのはヒーローといえば男であり、女性はサポートや母性の象徴としてのみ、いたように思います。

 

そしておそらく、僕がフェミニンな考え方に触れたのはエマ・ワトソンのUNでのスピーチだったと思います。たしか大学生のころ。大学のころは体育会系の部活の中でリーダー系の役職に多くついていたので、それこそ今の自分では想像できないくらい、男らしい像を演じていたように思います。


なので、大学時代の友人、特にあまり僕と近くなかった友人に会うと昔の自分を演じなくてはいけない気になってしまいかなり疲れます。最近はましになりましたが。

 

 

そのころから比べると時代はかなり変わってきた、もしくは変わりつつあるような気がします。

 

特に外国では。。

 

ハリウッドではそういう影響もあり、今までないがしろにされてきた側の人々にスポットライトを当てた映画が多くあるような気がします。

 

一つはトランプがいる時代という意味もありますが、そうした抑圧によって生まれる芸術というものはかなり多くあるので、何事も、良い、悪い、と二元化できるものではないなと思います。

 

そうした流れに乗れる人、乗らない人、遠くから見てる人、抗う人。

 

これも、どれが良い悪いという話ではないのですが、棹をさせば流されるもので、システマ的に言えば、流れに乗りたいところ。

 

と思いつつ、7部に出てくるリンゴォ・ロードアゲインの言う「男の世界」に共感してしまう自分もいるわけで、ここら辺は難しい。

 

光り輝く道。デイライトといえばアメフトのランニングバックであればだれもが見ていたものなのでなんだかんだそこへの名残もあるような気がします。。

 

とはいえ、この「男の世界」とフェミニンな流れは、実は相反するものではないと思います。

 

フェミニン映画。という括りが正しいのかはわかりませんが、あえてそういう括りをすると、女王陛下のお気に入りサスペリア、天才作家の妻、アリー、シュガーラッシュ、と上げきれないくらいあるわけです。この半年の中だけで。

 

ただ、こういう時代の流れに男はどうやって乗っていけばいいのか。それがあまり描かれてはいないような気がします。

 

なので、僕くらいの男性主義社会を見せられ続けてきて、社会に出てみればそんな時代は崩壊しつつあるという世代の男性陣は、結構悩んでんじゃあないかなと思ったりします。

 

男性主義社会を作ってきた爺さんたちは逃げ切っちまえばいいから楽だよなと思いつつ、今になって、ハリウッドなどでは、MeToo運動が起こったりと、過去の罪を償わなくてはならないようで、爺さんたちも大変だなと思うわけです。

 

まあ自業自得といえば、それまでですが、時代の価値観に縛られてきた人々、シェイプオブウォーターのストリックランドなんかは時代の被害者の一人として描かれてました。加害者が実は被害者だったみたいなのはよくある話で、だからこそ自分のこと(傷とか)をよく知らないといつの間にか加害者になってたりするので危ないわけです。Know Yourself。コントロールが大事なわけです。

 

歩けよ乙女、悩めよ男。

 

誰もが自由に生きていい時代なはずので、僕ももうちょっと自由に生きたいなと思います。

 

かっこいい女性のファッションをまねるとかしたいですね。女装ではなく。これはノエル(オアシス)がなんかのインタビューで女性の靴のほうがオシャレだから、女性ものの靴はいてるって言ってたのをマネしようって作戦です。もちろんサイズなどの問題もあるので色々解決策を探す必要はありそうですが、コーチ(クロエ・モレッツ、マイケル・B・ジョーダン)とかはそういうファッションも取り入れてそうなので、最近はSNSで色々研究中です。ルビー・ローズ姐さんなんか、男よりカッコよくて、キレイで自由でオシャレ。かくありたいものです。ゼンダヤのスーツ姿とかもとてもカッコよかった。

 

明日のアカデミーの参加者のファッションも楽しみです。

システマ的フィジカル

 

セミナーを大阪含めての2週間味わったのは今回が初めてなので長く感じました。
正直やっと終わったーと思ってしまったのは否定できません。
もちろんそれと同時に寂しさもありますが。。


実は大阪のセミナーではほぼ疲れがなく、むしろ普段よりもよっぽど睡眠時間が長かったことと、おいしいものを食べたことによって体力が余っていた感じです。


馬肉いいですね。行ったお店は値段も安く、店員さんは男女ともに美形が多くてとても良かったです。もちろん味もよく、色々な部位を食べられたことも大きかったです。
東京にもああいう少しお洒落な馬肉バルがあるといいなとネットで探していますが、なかなかよさそうなものがなく嘆いております。


東京の土曜日もそこまで疲れがなく終われて、さてはシステマをやる体力がついてきたのでは。。。と自信を持ちかけていました。


日曜日。へとへとになりました。最初の2時間くらいかなりいい状態にもっていけた(当社比)と思っていたのですが、少しずつ削れていってしまい、しまいには状態がどっかいってしまって、へとへとになっていました。かなり多くの方が疲れた様子でしたが、聞いた話によるとザイコはみんなが疲れるまでやって、そこをもう少し引き延ばして練習させたいそう。なので大阪では休憩がないこともあったし、今回もかなり遅くまで休憩を取らなかったとのことです。(盗み聞きしました)


なんとなーく僕の中ではハンターハンターの念能力のイメージで,今回やってたのはビスケとやってた練の訓練っぽいなと、イメージがつきにくい人はドラゴンボールで常時スーパーサイヤ人になってる感じです。疲れますよね。


普段の動きっていうのは、持ってる力を拳に集めてパンチを打ったり、お腹に集めてガードしたりっていう感じですが、今回のは強い状態を作っておけば強いっていう当たり前のことでした。

 

わざわざ拳に集めて、ガードを弱くしたり、その逆をしたりっていうことは必要ないんだっていうことかなと。あくまでわかりやすい例として挙げてるので、話半分以上には聞かないでくださいまし。


ステマはその状態をリラックスで作る必要があることが難しさのひとつかもしれません。漫画みたいに可視化できたり、(ザイコは感覚器の一つとしてと言っていたので、近い形にはもっていけるとは思いますが)力でできれば楽なのかもしれませんが。リラックスで出来たら、一番楽に動けますものね。


ザイコは東京のセミナーで、フィジカルの練習は嫌いだからやらないといっていました。しかし、状態を作ってそれをキープする体力は、システマのフィジカルの一つといえるのではないのかなと思いました。

 

というかそもそもザイコはフィジカルトレーニングと呼ばれるものをかなりやっていたそうで。色々と逸話はありますが、この前もプッシュアップを一日500回、セルゲイとともに行っていたという話もあり、そもそもの体力がないと始まらないのではとさえ思わされます。


これは僕が大学時代のコーチに言われていたことなのですが、そもそも練習するための体力がないから、とりあえず走る。


効率的なトレーニングが推奨される昨今ではあまり好かれなそうな話ではありますが、これはまあ一理あるなと今では思うわけです。僕自身走ること、特に長距離はかなり嫌いなのでやりたくもなかったのですが、フィジカルがなければそもそも論すら始められないともまた思うわけです。


ザイコのセミナーはそこがスタートなのかなと思います。体力がある程度ある、システマの練習ができるようになっていることが前提の、システマ的な体力づくり。ここに辿り着くまでには当然それなりの練習量が必要で、体力がそれによってつき、今までのセミナーでやったこと、特に第二の呼吸、静かな呼吸なんかはもう今までにやってるよねという感覚で今年のセミナーがあったように思います。

 

 

とはいえザイコの感覚のおすそ分けしてもらうだけでもかなり良い練習になるのは間違いないですし、練習のための練習する必要もないわけです。とりあえず今の段階でセミナーを味わう。少なくともなんかしらは学べるのですから。

 

正直ザイコがやろうとしてることを僕はほとんど理解できず、ザイコが言っていることを手掛かりにいい感覚を作ろうとする作業をしてしまっていると思います。

 

 

その感覚をああだこうだ言いながらセミナーで取り組んで、そのあともクラスでこうなんじゃあないかなーとか言いながら遊び半分で取り組むのも一つのセミナーの醍醐味かなと思います。

 

最近のクラスで出た、「ミカエルが言う普通に動くからだ」というキーワード。癖があったり、動かない所がある身体ではなく。普通のからだ。そのためのフィジカルをまずやっとくことはやっぱり大事かなと思います。

 

 

そのうえでやれる練習も必ずあるような気がします。

 

練習します。

大阪ザイコ振り返り

大阪のザイコセミナー。とても面白かったです。

 

ザイコのセミナーを言葉で捉えると結構意味わかんなくなることが多いんですが、実際に受けてみると説得力があり今までの認識がガラッと変わると思うので是非週末のセミナーに行ける方は行って欲しいと思います。

 

 

ただブログでやらないといけないのは言葉でいかに説明できるかだと思うので、ちょっと頑張ってみたいと思います。

 

僕は今回金曜の特別クラスと土日のセミナーに参加しました。

 

金曜の特別クラスでは呼吸を感覚機能の一つとして使えるようにするというものでした。水曜日(2月6日)の東京の特別クラスでも同じような内容でした。

 

まず初めに思いっきり呼吸をします。深呼吸の感じで自分の呼吸の自由さを感じます。十分に感じられたところで、二人一組になり少し触れてもらいます。その時に自分の呼吸がいかに制限されているのかを感じ、もとの呼吸の自由度に戻していきます。

 

普段の生活の中でも呼吸の自由度が頻繁に制限されています。ただ、これ自体では大抵の人は気が付かずに過ごしてしまっています。なので、フィジカル的な接触が起こってから、それをフィジカル的に処理しなくてはいけない。そうすると身体が大きい人、力が強い人、スピードが速い人とやった時にやられてしまうことになる。そうはしないので、呼吸のレベルで処理できるようにする。実際にザイコと組んでみると、離れた位置からすでにコントロールされてしまっていて、接触の時点では自分の選択で動いていないような感じでした。しかし、自分の動きが押したり、引いたりされることによって制限をかけられているわけではないので嫌な感じなどはありません。ザイコの言っていた自由と選択の自由の違いを感じました。

 

金曜日にはひねったり、押されたりするところから回復するというものでしたが、水曜日には相手の思考や意図の変化を感じて快適な位置に動くというところまでやりました。

 

東京のセミナーでもやるそうです。

 

 

そしてザイコのストライクセミナー。

 

いきなりのスタティックプッシュアップから始まります。まずこれである程度疲れることが大事です。そこからパートナーがストライクすることによってその人を助ける。回復させる。それを最初は2人一組で行い、次に4人一組で3人がスタティックしているのを一人が回復させていく。そして、その次にまた二人一組に戻り、遠くから見ていて、30秒に一回だけストライクを打ちに行って回復させる。この時に強調していたのは、正確性。自分に迷いが出ているうちはストライクを打たないことです。

 

ストライクが打てるのは30秒に一回かもしれないし、1分に一回かもしれないし、半日に一回かもしれない。もしかしたら、一生に一回かもしれない。この時はスタティックプッシュアップをしている人を助ける話だったので、みんな笑っていましたが、実際にこれは現実にあり得る話ですよね。あえてシステマのクラスに限定していうと、初めてクラスに来た人がまた来てくれるかはわからないわけで、その人にとってはそのクラスが人生で最初で最後かもしれない。その人にどうストライクを打つのか。

 

 

スタティックをやっているときには辛いのはやっている方でパートナーは特に辛くはないです。なので余裕があるほうが助ける。シンプルです。

 

そして最後はスタティックしている人のそばにいることによって助ける。居場所とプレゼンス(いること)のみによってその人を助けるというものです。この時にはかなり疲れていることが大事です。

 

ちなみにここまでで2時間程度。一人1時間くらいはやっています。あまりスタティックが得意でない人も少しずつ姿勢がよくなるなど、楽にできるようになってくるのが見て取れたのがとても面白かったです。

 

 

その助ける側の感じをもって今度はストライクを打たれます。もちろん打つ側も同じ感じで打たなくてはいけません。打つ方は連続で50回くらい打ちます。(目安)もちろんこの時に自分が打ちたいように好き勝手打つのではなく、さっきのように相手のことを考えて打ちます。そして打たれる側。こちらもさっきやった助ける側の感覚で相手を観ます。そして、10回打たれる間、息を吸って、また10回打たれる間、息を吐きます。我慢して耐えるのではなく、相手を助けるように受けます。

 

その次に同じワークをしている中で、相手が強く打ちたくなるように自分の状態を変え、そこから相手の打ち気をなくさせるように状態を変えます。

 

その次に相手に打たせておいて、ストライクがどこから来てるのかを見極めそこに届くようにストライクを打ちます。この時も自分に迷いがあるなら打たない方がいいと言っていました。

 

そこからエクスターナルのストライクとインターナルに響かせるストライクの違いをやりました。エクスターナルのバリアとぶつかるのではなく、内側にのみ響かせるストライク。

 

日曜(2日目)のデモ中にドアをノックするのではなく、中に入って中の人とビールを飲むという感じと言っていました。ここら辺の比喩は実際になんとなくの感じを掴めたときにわかるものだと思うので、やる前から言葉に踊らされるのではなく、はじめはまあそんなもんかっていうくらいでいいのではないかと思います。

 

この時ももちろん相手のことを観ることが大切です。エクスターナルのストライクはいくら強くなっても壊すことしかできない、例えばジョイントブレイクという言葉があるように、ジョイントに対してエクスターナルに働きかけているだけでは、相手を壊して敵を作ることしかできない。敵を作るのはやめなさいと言っていました。

 

このインターナルに打つワークから2日目は始まりました。初めの30分くらいはずっとデモです。

 

この時に言っていたのが、自分がどう打つのか、どのくらい強く打てるのかではなく、相手にどう影響するのかが大事ということです。また、周りの人にどう見えるのかを気にするのではなく自分が打つ人がどう感じるかが大事とも言っていました。

 

この日はそこから、相手に活力を与えるストライク、相手の活力を奪うストライク、ストライクによる方向付けをやりました。この辺は応用なのでこういうこともできるよというものです。

 

そして食後(前日は休憩なしでした)、うつぶせに寝てる相手にストライクを打つことでマッサージをするというワーク。今回学んだことをすべて使ってやるというものです。

 

 

 

これをやった時にようやく非破壊のストライクを理解できたような気がします。

 

 

取り急ぎワークの振り返りしました。感想等は東京セミナーが終わってからにしようと思います。

Individuals

僕にとって初の大阪セミナーに参加してきました。アフターも含め、東京とはまた違う感じでとても良かったです。金銭的な問題がなければ毎セミナー参加したいです。今回は初めてなので結構お金かかってしまいました。とりあえず9月にあるであろう、今年の僕にとってのメインイベントに結構な額かかると思われるので、しっかり計算しつつ行きたいです。

今回のセミナーのテーマはストライク。本当にストライクやるのかなって多くの人が思っていたと思いますが、やりました。

今回ザイコがよく言っていたのは、群れとしての群衆と、個々の集まりとしての群衆を使い分けるということ。peopleとpersonsって僕の中では解釈してます。ザイコはindividual と言ってました。

このまま大阪ザイコセミナーの振り返りと行きたいところですが、今回は別のお話。

Glass。シャマランの最新作で、アンブレイカブル、スプリットの続きです。邦題はミスターガラスですが、凄い発音しにくいのでグラスでいきます。

前作の2本を観てると面白いという評判だったのですが、見終わった時、なんかこの映画変だなって思いました。

前作までの流れと一緒というか、シャマラン映画は大体そうらしいんですが、スーパーヒーローの存在の証明です。前作までと違うのは今回は普通の人々がスーパーパワーの存在を知りながら、その持ち主の足を引っ張るというものです。

僕の感じた違和感を確かめるべく、色んな解説を聞きました。その違和感の正体はシャマラン作品の裏にある、アインランド主義という、いわゆるエリート主義でした。

アインランドは小説家で、ハリウッドで脚本家になりたかった人です。ソ連になったことにより、アメリカに逃亡してくるはめになったので、共産、平等を酷く憎んでいます。

アインランド主義についてだけで、かなり話せるのですが、要約すると一部のエリートが世界を変えるのだから、そのエリートの自由を保証しておけばいいんだというものです。普通の人々はどうでもいいから。

シャマラン自身がかなりそう思っているらしく、自分自身を投影させた、物語を作れる天才(シャマラン)が世界を変えるという作品の案を出したら、ディズニーに「これは自分に入り過ぎてる」ということで却下されました。このことで自分を曲げないシャマランはブチ切れ、話し合いの場からいなくなり、ディズニーから離れます。

また、シャマラン作品に共通してる概念として、もう一つ、醜いアヒルの子があります。醜いとバカにされていたアヒルが実はもっと美しい白鳥だったという話です。

スプリットにせよ、グラスにせよ、天才は普通でないが故に傷つけられるが、その後自分自身の才能を見い出し自分こそが天才だと気づくというところで終わります。

これ自体はそんなに特別なものでもなく、よくあるといえばよくある作品です。これにアインランド主義がつくことによって、スーパーヒーローVS普通の人々という構図が出来るわけです。

ありえないですよね。

だってヒーローは普通の人々を助ける存在だから。

そしてこの作品は、シャマラン自身の復習としての作品なんですよね。

ヒーローはアベンジはしてもリベンジはしません。自分では戦えない人々のために戦うのがヒーローです。

ここで僕の昨日のツイートに繋がります。

僕の中で内包されている、弱者救済と弱肉強食の矛盾。自分で戦える人のためには戦わないって事です。凄い簡単に言うと。というか僕にとってこのツイートはもうあんまり意味をなしてません。

だってこの時の僕の言っていた弱者っていうのは、peopleであってpersonでもindividualでもないからです。

意味ないですよね。

実体のない群衆としてみて、それと戦う。

やりがちですね。

女性蔑視。男性嫌悪。反韓反日。大体差別的なものってそういうものでしょう。

個々人を群衆のカテゴリーの入れて解決しようとする。

今回のザイコの言っていたIndividualっていうのはそういう部分も意味してたんだろうなと思います。

ただそれがインターナルや意識的な部分だとしても、個々人と向き合うのは疲れてしまいますよね。だからこその体力、だからこそのフィジカルなんだろうと思います。

ヒーローになれない人でも、いやだからこそトレーニングが必要なんだと思います。

やれるならやったもん勝ち

力こそパワー

力isパワー