だらっと和田パン

話が跳んだり跳ねたり行ったり来たり。映画とか、システマとか、漫画とか。ネタバレあります。

ヴェノムを観たのでグールを語る

朝からヴェノム。平日の朝イチは映画館が空いてるのでよく行く。できれば全ての映画を平日の午前中に観たいくらい空いてる。映画館にとってはいいことではないだろうけど。今日は平日なのに午後になると人が溢れるようになっていて、結局観たい映画を観ることができなかった。直前まで予約渋ってたのが悪いのは分かっているけど。こうなると、午後の予定がガラッと空いてしまうから、たちが悪い。

もう少しこの午後の使い方を考えたい。本を読んだり、勉強したりしているから、それなりにいいとは思うけど、もう少し時間の使い方あろうにと思う。今日はギリギリまで予定入りそうだったからまあいいんだが。うむ。っていうか、眠くなるんだよな。

朝からヴェノムを見てきたので、今日はグールについて語ろうと思う。東京グール。完結した時に少し触れた気がするけど、改めて通して読んでみると考えるところが色々あったので書こうと思う。

冒頭でカフカの「変身」のくだりが出てくる。気になったので「変身」を読んでみた。主人公は社畜で、仕事に行かなければいけない時間に起きるとムカデになっている。

これはグールの主人公とほぼ同じで、違うのは大学生であることと、グールになる経緯が描かれていること。

昔好きだったご飯が食べられなくなるところも一緒。「変身」では腐ったチーズとかは食べられるけれど、グールは人間の食べ物が食べられなくなる。ギリギリ、コーヒーのみ。

1番大きな違いとしては、ムカデになったグレゴールは家から出ることもなく、ご飯を食べなくなって死んでいく。

グールは(グレゴールを縮めて読むとグールになるのね)むしろそこからがスタート。ある意味、「変身」に対するオマージュというか、別の視点で描かれている漫画である。作中に出てくる作家が「拝啓カフカ」というタイトルの本を書いているが、ようは東京グール自身が「拝啓カフカ」だったのかもしれない。

今回読み直してて大きく気になった所は、グールは「猿の惑星」の逆パターンとも言えるのではという部分である。何故そう思ったのかというと、グールの武器(カグネ)は身体から出るのだが、それは固体によって異なり、肩、肩甲骨の下、腰、尾てい骨の4つのどこかから出る。

それはジャンケンの強弱のように、相手によって有利、不利があったりする。その説明をグール捜査官(グールを倒す人、ざっくり)が説明する。グールは同種でも殺しあうようにできているんだよ。と。

これは、キラーエイプ理論なのかなと引っかかった。キラーエイプ理論とは、同種間で殺し合うようになったことによって、人間は猿から進化したという理論。

キューブリックの“2001年宇宙の旅”の最初の場面はそれを表しているし、“猿の惑星”で出てくる‘ape shall never kill ape’はそこからきている。

というかこれはキラーエイプ理論知らなくても引っかかると思う。だって人間は人間を殺すから。

実際チンパンジーも同種間で殺しあうので、キラーエイプ理論は現在では否定されている。

人間の知能を持った猿は人間よりも身体能力が高いので、(幼少期から熊と相撲してたハビブ・ヌルマゴメドフとかは例外かもしれんが。。。金太郎かよ!)ある意味では人間より上の存在となるし、グールも人間より遥かに高い身体能力を持っている上、人間を食べる。というか人間しか食べられない。

人間からグールになった主人公の金木くんは悩む。こんな身体になってしまって自分は悪人になってしまったのではないか。と。

普通(あんまり使いたくない言葉ではあるが)、人が人を食べ始めたらそれは狂人である。だが、グールはそういう種族である。そういう種族に生まれたことは悪なのか。そんなこともグールの一つのテーマになっている。

善悪。善悪の判断とはなんとも難しい。だからこそイーストウッドは映画で同じような内容を問いかけ続けるし、ノーランは“ダークナイト”であれだけ強烈なヴィランを作り出した。7部でいうところの「ネットに引っかかったテニスボール」のようにどちらに転がるかはあまりにも微妙なものである。

東京グールの中で梟は語る。

「奪う行為は等しく悪だ。生まれ落ちたその瞬間から何かを奪い続ける。食物、かかわりあう人々、肉親からですら生きる限り、屠り、殺し、奪い続ける。命とは、命とは悪そのもの、罪を犯し続けるものの事。」

これはイーストウッドの問いかけに対する一つの答えである。

では悪であるがゆえに殺し続ける事しかできないのか、蛇の囁きによって禁断の果実を食べた人々、は船の上で爆弾のスイッチを押すしかないのか。

猿と人は殺し合わなければいけないのか。“猿の惑星”では、猿と人間は共生の道を辿る。

地球外生命体のヴェノムはエディと共生できるだろうか、殺し合うことしかできないのだろうか。

そんなシリアスな疑問を軽く吹っ飛ばす、“ヴェノム”。洋画実写版ど根性ガエル

1年間も焦らされたせいで、逆に観る前に冷静になってしまい、本当に面白いのかなと心配になっていたけど、ミシェル・ウィリアムズ出てるし大丈夫だろうという、いい女の謎の包容力で不安を落ち着ける。

ヴェノム。

スパイダーマン3”やCMのイメージからダークなものを予感していたけど、蓋を開けてみたらど根性ガエル。僕世代ならドラえもんとでも言おうか。まあでも一緒になってるから、ど根性ガエルか。

トム・ハーディの顔でのび太くんやっちゃうんだもんな。

それはずるいわ。今年なんだかんだ150本近く観たけど、1番笑った映画だと思う。

誰とでも一緒に観れる映画です。

是非劇場で。

許されざるもの

 

 

最近似通った題材の映画を観ることが多くある。

 

正義の執行である。

 

 

 

特にイーストウッドはこの題材を昔から扱っていて、人が人を裁くことは正しいのかを問いかけてくる。答えのない問いかけ。だからこそ、常に問いかけ続けなければいけない。

 

 

“許されざるもの” 、“ダーティー・ハリー”、 “イコライザー2”、そして“ブレイン・ゲーム”。

 

 

それぞれ違った角度からの問いかけではあるものの、1番大きな問いかけは同じように感じた。

 

 

“許されざるもの”では昔は凶悪な殺し屋、賞金稼ぎだったイーストウッドが、ある女性と結婚し、改心する。2人の子供ができるが、その女性は死んでしまいイーストウッドはヨボヨボのおっさんとして登場する。賞金を目当てに、娼婦の顔に傷をつけたカウボーイを殺しに行くが、久々に握った銃は的外れで、馬にはろくに乗ることもできない。どうにかこうにか元相棒のモーガン・フリーマンと、話を持ってきたキッドと町に辿り着く。

 

 

この映画では人間の二面性を暴いていく。悪いやつだと思ってたカウボーイは、そんなに悪いやつではなかったし、良い人だと思ってた保安官は実は独裁者だった。銃の名手のモーガン・フリーマンは1発撃ったら怖じ気付いて帰っちゃうし、ヨボヨボのおっさんのイーストウッドは酒を飲んだら人間を超え、撃ち殺しまくる。

 

 

 

最後のシーンではヨボヨボだったイーストウッドが酒を飲んだだけで最強のガンマンへと変身する。

 

 

カンが戻ったというレベルではなく、変身する。

 

 

野暮な説明は映画の中ではしてくれないが、これは紛れもなく人間から上位への変身である。

 

 

“ダーティー・ハリー”では分かりやすく、十字架が何度もイーストウッドの後ろに出てきて、イーストウッドは神の代理人なのだと分かる。ゾディアック事件のサイコパスを描いたこの映画では、法の正しさから見つめ直させられる。

 

 

 

ある意味ではバットマンもダーティー・ハリーのような存在である。警察が捕まえられず、法が裁けない悪人たちを捕まえるのがバットマン。撃ち殺すのがダーティー・ハリー。ダーティー・ハリーは一応警察なのにバットマンよりひどい制裁をかます。鹿を殺すためのマグナムで人を撃つ。どんな警官だよ。

 

 

まあバットマンもジョーカーが何度も病院から出てきちゃうから、コミックでは首絞めて殺してしまったらしい。その時の大統領のレーガンバットマンを倒すために派遣したのがスーパーマンだとかなんとか。

 

 

 

十字架の話でいうと、“ブレイン・ゲーム”では、それこそ何回も十字架が出てくる。そこまで出さなくてもいい加減わかるよってくらい出てくる。

 

 

ブレイン・ゲーム”の場合は正義の執行によって悪人を倒すというより、慈愛によっての殺人は許されるのかっていうのが大きなテーマにあった。“ブレイン・ゲーム”の場合はスーパーパワーが元々あるから、神の代理人(きどり)っていうのはわかりやすい。

 

 

 

最新作は“イコライザー2”。正直にいうと、1を観てないのでイコライザーが凄腕のエージェントっていう設定以外はよくわからない。

 

 

元々イコライザーは凄腕のエージェントだから、自分の実力でどんどん執行していくんだけど、最後に神風が吹く。

 

 

 

Kamikaze

 

 

エミネムの最新アルバムの名前もKamikaze 。神風って英語でも通じるんだなって思った。ひきこもりや痴漢のように。少なくともKamikaze はエミネムによって全世界に知られることになった。

 

 

 

人は皆良い面も悪い面を持っている。

 

 

フレディに光と闇があるように、誰にでも光の強さや種類は違えど、光もあれば闇もある。

 

 

アダムとイヴが林檎を食べた時から人間は罪を背負い続けている。

 

 

 

では許されざるものとは誰のことなのか。

 

 

 

答えの一端は“許されざるもの”の中にある。

 

 

ただイーストウッドは答えを丸ごとを言うようなことはしない。

 

 

ただ問いかけを残していく。

ボヘミアン・ラプソディー試写

ボヘミアン・ラプソディを試写会にて、一足お先に観させていただきました。

圧巻です。

この時期(11月くらいから)に出たってことは、当然アカデミー狙ってるとは思いますが、獲るんじゃあないかなと思いました。

他の観てないから本当は比較のしようもなんもないんですけどね。

でもそれくらいの衝撃はあります。

最後の21分は涙なしには見られません。

ミュージカルみたいな感じで、華やかなフレディの一生を歌って踊ってとなるかな、とはまあ思ってなかったんですけど。とりあえずクイーンの楽曲を並べていく感じでもなく、どちらかというと静かなシーンが目立つ映画でした。

観客の視点とフレディの視点を重ねる場面が多く、感情移入しやすいようにできてたと思います。

ここで、フレディについて軽くおさらいすると、フレディはイギリスに住む、東アフリカ生まれのインドからの移民。で、そもそもの名前はフレディ・マーキュリーではないです。そしてゾロアスター教。でゲイで、エイズにかかります。ちなみに出っ歯ですね。

超弩級のマイノリティ

ちなみにフレディを演じてる俳優さん。ラミ・マレクさんはギリシアの地も引くエジプト系アメリカ人。

ここら辺をおさえておくだけで、なんとなく“なぜ”、“今”、クイーンなのかが分かる気がしますね。

日本でも生産性云々言ってる人いましたが、おんなじことフレディに言えんのかって感じですね。

ステージの上での華やかな衣装や、激しい動きからは想像できないほどに孤独なフレディ。

“レイ”でもそうだったけど、大スターほど心の奥底に孤独な少年を抱えている。

あまりにも強い光に当たり続けるが故に、あまりにも濃い闇に包まれる。

一見矛盾しているようで、表裏一体。

光と影。

現実と虚構。

あまりに脆い心に悩み続け、フレディは1人孤独を抱え続ける。華やかなステージライトに彩られながら。

それでもフレディは “I am the champion” “I will rock you” とは歌わない。

打ち明けられない弱さを心に抱えるから、彼の歌は人々に届き続ける。

最も弱い彼自身を歌うから、フレディの歌は弱い人々にこそ響く。

クイーンは古いバンドなんかじゃあない。

今現在に生きる人々にこそ届く歌

見逃していい場面は一つもなく、聞き逃していい曲は一曲もない。

クイーンにかつてハマった人も、大好きな人も、全く知らない人も、全ての人が楽しみ、感動できる映画です。

ぜひ劇場でご覧ください。

コネクティングドット

基本的に運がない男なので、懸賞とかに応募しても当たった事ないし、ギャンブルも好きだけど、あまりやらない。弟との絶対的な運量の違いを見たとき、才能の違いを見せつけられた感じだった。それ以来クジ引きなんかは絶対に弟に引いてもらう。

ただそんな僕にもたまにはいい事あるもんで、応募してたボエミアンラプソディの試写会に当たった。酔ってたのもあるけど、テンションが上がりすぎて手紙を失くしてしまうくらいには嬉しかった。

逆に失くした事でテンションだだ下がりだったけども、なんとか見つけ出し、ホッと胸をなでおろす。

ただ試写会は1組2人。まあ1人でもいいんだろうけど、行った事ないからどんな様子なのか分からない。

オペラの時は男女で行くもんだろって思ったけど、完全に固定観念だった。

行きたいって言ってた後輩は平日の夜ってこともあり、残業確定だそうで、来られず。

久しぶりにマネーペニーでも呼ぼうかって感じだけど、クイーンって僕の世代知ってるもんなんかね。

20代後半から30代前半くらい。

キムタクのドラマで使われてた “ I Was Born to Love you” とか“We will Rock You” とかは聞けば知ってるとはもちろん思うけど、クイーンが好きなんです。とかっていうのは割とマイノリティなんじゃないか。

でも、父親が好きだからとか、あの世代の音楽が好きとか、ロック好きとかって考えると結構いそうだなとも思ったり。思わなかったり。

っていうかマイノリティっていう意味では、薄々感じてはいたけど、オタクの僕はマイノリティっぽい。

同世代の人たちに漫画とか映画とかの事を熱く語ると結構引かれる。

こういうオタクらしさっていうのは出しにくいし、家系的に人の悪口とか嫌がる事を言いまくれるっていうのもあって、なかなかベラベラ喋りにくい。一回考えてからじゃあないと、これは喋って大丈夫なのかどうか判断がつかない。しかもだいたい「これ言ったらあかんやつや」って事が1番最初に出てくる。目上の人と喋るんはそういう意味でも難しい。

口は災いの元って事で、だったら無口でいた方がいいかとは思ったりもする。周りには割と無口だと思われてるから、(実際にめんどくさがりってのもあるが)喋らんでもいいかと思ったりもする。

そもそも武術やってます。しかもシステマっていうのはかなりマイノリティだろって言われればそうかもだけど。

クイーンの話。

クイーンは町山さんが中学生くらいの時に流行り出したらしいから年齢層的には50からくらいのもん。40代くらいまでは結構メジャーかもしれんが。

フレディは僕が生まれた年に死んでるし。

マイケルジャクソンとかも、死んでから再ブレイクっていう現象があるから、30代とかもそういう意味では知ってるかもしれない。

結局よくわからん。

なぜならその時代に生きれてないから。

その時代を生きてきたってのはやっぱりかなりの強みだなと改めて思う。

僕は見た目がおっさんだからなのか、結構いいオヤジ、カッコいいオッサンへの憧れがあったりして、クリントイーストウッドとかアルパチーノとかロバーデニーロとか大好きだし、ジェームズボンドも大好き。

かといってああいう風には行きられんところが残念だったりもするが、これでも努力はしてたりしてなかったり。

当時の映画を観れてもその時代の雰囲気のまま味わうこととはやっぱり違うなと思う。例えば “ヒート” とか劇場でリアルタイムで観た人なんかはめちゃめちゃ羨ましい。当時の社会情勢だったり、雰囲気だったり、噂話とかを楽しみながら映画を楽しむっていうのは今となっては味わえない贅沢。

今の僕にできることといえば、点を集めることくらい。もちろん今の映画も観るけど、昔の映画なんかはちょっとずつ点で拾っていくしかない。

町山さんの話を聞いたり、映画の解説を聞いたり、ネットで調べてもそれは断片であり、点である。

その点を少しずつ繋げていく。その作業も点がたくさんないと出来ないし、点が存在しないところには繋げる線は伸ばしていくことはできない。

かの有名なリンカーンゲティスバーグで、、

じゃなかったジョブスはスタンフォードのスピーチで点と点を繋げなさいって言っていた。

武術にしても、創始者が亡くなった後にはそうした点を拾っていくことしかできない。

その武術の歴史を読んだり、DVDで技を見たりしても、結局点を拾うことにしかならない。

銀河系にある星のいくつかを眺めてることは、その星に住むことにはなりえない。

幸いシステマ創始者が生きてるとはいえ、僕が触れてる歴史っていうのはかなり短いもので、それまでの歴史については点を集めていくことしかできない。

かといって自分にできることは少しずつ点を増やしていくことしかできない。できないことはできないんだから、できることをちょっとずつ積み重ねる。

運量の少ない僕にはそれくらいのことしかできない。

でも頑張って生きてると試写会に当たったりもする。今までだったらどうせ当たらんと応募すらしなかっただろうけど。

生きてる時代になんとなく生きてみる。

フレディがいない時代にも、フレディの点を拾えることに感謝して。

やめちゃってもいい

「肩に力が入ったらやめちゃってもいい」

昨日の(10月12日)クラスで何気なくインストラクターが言った言葉。

なにかの障害と向き合った時人は肩に力が入りやすい。四足歩行時代の名残だと聞いたことがあるけど、実際どうなんだろうか。

ただ、肩に力が入ってもあまり効果的でないのは確かな気がする。二足で立ってると上に上がるだけだから。

そして往々にして肩に力が入る場面は危機に出くわしている時。恐怖を感じている時。

本能的に危機を感じると3つのFの反応が起こる。いわゆるファイト、フライト、フリーズレスポンスと呼ばれるもの。

なんでフリーズしてしまうのかは最近まで疑問だった。フリーズすると死ぬ可能性が上がるだけだと思ってたから。

だけど本能的な動きにはそれなりに意味がある。

例えば森の中でガサッと動物が動いた音がした時、虎や熊などの大型猛獣がすぐ近くに見えた時。そこで大きく動いてしまうと気づかれてしまう。そこで、ピタっと停止する事で、気づかれずソッと逃げ出すことができたり、静かにやり過ごすことができる。

ただ、これは相手が気づいていない前提なので、ナイフを持った相手が襲ってきた時、猛獣に襲われている時など、動かなければいけない時にフリーズしてしまうのは単なるチョイスミスなのである。

現在の生活での危機感はいきなりの生死に直結しないことが多い。なので本能的な動きも鈍くなり、間違ったチョイスをしたとしても死ぬことはあまりない。それがまた本能を鈍くする。

だけれど 、今回の「肩に力が入ったら、やめちゃってもいい」は本能的な動きを、しなくてもいいよって改めて気付かせてくれた。

ザイコはこの前のセミナーで相手の動きに付き合わない、3つのF(ファイト、フライト、フリーズ)をしない。と言ったし、そもそも肩をリラックスすることは大事なことだと、マスター達は言う。

やめちゃってもいい。相手の動きに付き合わなくてもいいし、例えば少し呼吸をしてみる、例えば居心地の良い場所に2cmだけ動いてみる。

関係のない冗談を言ってみたっていいかもしれない。リンカーンのように。

巨匠スティーブン・スピルバーグの“リンカーン”。映画の中では奴隷解放宣言もせず、ゲティスバーグ演説もせず、暗殺のシーンも描かれない。

真面目で嘘のない、誠実な大統領と言われたリンカーンを、嘘つきで汚い政治家として描く。

憲法修正第13条を下院で通す話を延々とやる。

妥協あり。買収あり。偽証もあり。

南北戦争を止めるためのものだ、という大義名分のもとに法案を通そうとしてるので、戦争を引き伸ばしたり、南側から来た戦争を止めるための使者をどっか別の所に送ったり、そんなものは来てないと平然と嘘をついたり。

真面目で正直な大統領は見る影もない。

リンカーンがやることといえば、くだらないジョークを飛ばし続けること。

もちろんジョークには意味があるし、そのジョークの意味を理解できればリンカーンが言いたいこともわかるわけだが、冗談を冗談として捉えると意味不明で、しまいには議員達に怒られる。

リンカーンはおそらくうつで、ジョークを言って笑ってないと死んでしまう。プライドの高さと、力の及ばなさが自身をうつにする。そこまでしてなぜリンカーン憲法修正第13条を通さなければいけなかったのか。

シンドラーのリスト“から続くスピルバーグ自身の答え探し。

答えの一つは

“Whoever saves one life, saves world entire.”

ここに僕も強さの答えの一つをみる。

そういえば昨日のはじめに、なんでシステマをやる目的を聞かれた。僕の答えは「よく分かりません。」

確かに僕は強くなりたかった。きっと今もそうだと思う。

でも今は強さの定義が揺らいでる。もともと答えは見つけられていなかったけど。

その答えがわかるのは10年後か、それとも一生分からないのか。

少なくともまだ人生は続いている。

Life goes on.

プロレスとキリストとバカナオトコ

前回だったかに風邪かなんかが一気に襲ってくるんじゃあないかって書いた気がするけど、昨日は久しぶりにがっつり寝落ち。しかもなぜか上裸で寝てた。何時かは覚えてないけど、起きた瞬間寒いし眠いしで風邪引くんじゃあないかと思うものの、上に何か着る力すらなく、頑張って掛け布団(毛布が隣にあるのにそこまで手を伸ばせず)をかけた瞬間にブラックアウト。もう一回起きた時には身体が冷え切ってたものの、体力は回復しておりTシャツを着て毛布を羽織って眠りにつく。今のところ風邪の症状もあまりなく、体調やっぱり大事だなと。

というわけで

“ザ・レスラー”を観ました。

町山さんが色々なところで紹介していたので、気になってはいたけれども、なかなか機会が合わず。

今日も本当は”許されざる者“の続きを観ようと思ってたら全部借りられていて、何観ようか迷ってところで、たまたま目に入ったのでいい機会かなと思いレンタル。

内容としてはスーパスターとしてリングに立っていた男の20年後。名前はラム。羊。

当時の面影は全くなく、平日はスーパーで働き、週末には小さな箱で小銭を稼ぐ。

私生活では、娘に嫌われ、寂しさを紛らわすためにストリップの熟女に入れあげる。家賃も払えず、家に鍵をかけられる。

ラム。羊。ラムがストリップ嬢(キャシディー)にレスラーらしく、自分の身体にある傷の自慢をする。

キャシディーはそれを見て、ラムをキリストに例える。人々の罪を背負い、傷を負い続ける。

その時観客はラムと言う名の意味に気がつく。

羊。人々の生贄として捧げられる存在。キリスト。

羊たちの沈黙“の羊も同じ。

羊はキリストの暗喩に使われることが多い。

人々の罪を背負い戦い続けるレスラー。

ついに身体に限界を迎え引退を突きつけられる。

引退を決意すると、否応無く現実を見ざるを得ない。

自分の活躍する舞台を奪われ、今まで無きものとしてきた現実と向き合う。

仕事を手に入れ、娘の信頼を取り戻し、キャシディーとも少しずつ関係を深めていく。

だが男にとっての現実はそこにはなかった。ラムにとってはリングこそが自分が生きる場所であり、現実の私生活こそが虚構なのだ。

バカナオトコと人は笑うだろう。

不器用なやつだと、人は言うだろう。

それでも男はリングに上がり続ける。

人々の罪を背負い。

それでもレスラーはトップロープから飛び続ける。

虚構を現実にするために。

ACT3

エコーズのACT3。ジョジョの4部、「ダイアモンドは砕けない」で主人公レベルの活躍をしてしまう康一くんのスタンド。主人公レベルというか、4部はある意味康一くんの成長の物語だったのかな、と今更になって思う。4部に入る時のナレーションも康一くんだし。5部の始まりも康一くんだし。

主人公が微妙にすり替わってるっていう点では少し前に観た”フィフティ・シェイズ・フリード“なんかそうかなって思う。フィフティ・シェイズシリーズ3部作のラストなんだけど、最後だけだとお金持ちのグレイの心の成長の物語にすり替わってないかな、と思った。1作目はホテルに泊まった時になんとなく流してただけだったから、そこまで覚えてはいないんだけど。。 確か恋愛未経験のアナが超リッチのイケメンに好かれて、そこから大人のシンデレラストーリーみたいな感じだった気がする。そこからいつの間にか、グレイ(男)のトラウマ克服の話になって、今作は子どもだったグレイが大人になっていくような話。これはこれでありだなと思って観たけど、IMDbの評価は4.4。驚きの低さだけど、原作ファンとかもいるし、3作目ってだいたい評価低い気がする。“ゴッド・ファーザー”でも2作目までよりは3作目の評価低いし。ちゃんと終わらせるっていうのはむずいよね。何事も。

でもそんなに悪い映画ではなかったと思う。主演女優のダコタ・ジョンソンも可愛く見えたし、何よりグレイ役のジェイミー・ドーナンの身体がスーパーセクシー。特に背中。

ジョジョの話。

この前話した“ユージュアル・サスペクツ”が5部だとしたら、4部はダーティー・ハリーかなぁとか最近は考えてます。

なんでいきなりACT3の話をしたかっていうと、今日(10月9日)のワークがACT3ぽかったから。

銃を構えてる設定で、手のひらを合わせてその指先の狙いを動かさずに、全身を動かす。照準を常に一つに合わせたまま、身体だけを動かしていく。

その次のワークは銃を床と平行に360度回転させていくんだけど、自分の身体は極力上げずに、動く幅も出来るだけ小さくする。

どこらへんがACT3なのかっていうのは、4部を読んだことがあるか、見たことがある人だったら分かると思うんだけど。

今日はそんなことを考えながらやってました。(不真面目)

そういえば、今日はブラッドセミナー対策あったせいか、人が少なめだったな。自分も行くか迷ってたんだけどさ。

ACT3の後にモスクワセミナーでやったような(行ってないから情報だけだけど)、グラウンドでの掛け合いをしつつ、かけられた方が背骨を真っ直ぐにすることで快適になる。そして返して行く。

これって結局合宿ワークをグラウンドでやってるだけだなーと思った。ちょうどこの前あれから一年ってことでFBとかであがってたけど、なんかもっと前のことのような気もする。

合宿ワークの振り返りもできつつ、背骨ワークもでき、グラウンドも上手くなる。よきワークでした。

で、まあ今日のことだから当然対策セミナーでなにをやったかは知らないんだけど。ブラッドのユーチューブ追ってる感じだと、セミナーで、グラウンドのレッグワークやるんじゃあないかなと推測してる。

最近のユーチューブのトレンドだし。今回のモスクワセミナーでもやってた。ユーチューブって誰が上げてるとか全く分からないけど、なんかモスクワセミナーの後に、関連した動画あげてたから(勝手な解釈です)ブラッドはそこらへん考えてあげてるんじゃないかなーと思ってみたり。

当然セミナー(インターナショナル)の内容とかは話してるんだろうから、その中でモスクワでもグラウンドのレッグワークをやるっていうのは結構意味が大きいんじゃあないかなと思う。

超勝手な推測だけど。

そういったところを考えると今日やったワーク(このブログに書いてないこと含め)は結果的にブラッドセミナー対策になったような。。

まあでも結局は普段の練習をちゃんとやるのが大事なんだよな。